聖書のみことば
2022年6月
  6月5日 6月12日 6月19日 6月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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6月19日主日礼拝音声

 何が見えるか
2022年6月第3主日礼拝 6月19日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第8章22〜26節

<22節>一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。<23節>イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。<24節>すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」<25節>そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。<26節>イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

 ただいま、マルコによる福音書8章22節から26節までをご一緒にお聞きしました。22節に「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」とあります。主イエスの一行がベトサイダに着いたところから今日の記事は始まっています。
 ベトサイダはガリラヤ湖の北岸に面していた大きな港町で、ヨハネによる福音書1章44節によれば、主の弟子であるシモン・ペトロとアンデレ、フィリポの出身地です。ですから当然、この町には彼らの幼馴染や親類、顔見知りの人々が大勢暮らしていたはずで、仮に主イエスがこの町で3人の弟子たちの実家を頼り伝道のための拠点づくりをしようと考えておられたならば、この町でもカファルナウムと同じように大勢の人たちに「神の御国の訪れ」を、すなわち「神さまの恵みの御支配が、今やって来ている」ということを告げ知らせ、さらに多くの弟子たちを獲得するということが考えられただろうと思います。その可能性は十分に期待できる町でした。
 しかし主イエスは、この町には長居をなさいません。それどころか、この町を素通りして先を急いで行かれます。

 主イエスの旅には、この時、目的地がありました。それは、このベトサイダでもカファルナウムでも、あるいは故郷のナザレでもありません。主イエスはこの時、ただエルサレムを目指しておられました。「次の過ぎ越しの祭りにはエルサレムに着いていよう」と固く心に決めておられました。それは、「主イエス御自身が過ぎ越しの子羊となって血を流し、肉を裂いて屠られるため」です。主イエスが今歩んでおられる旅の目的地は、エルサレムです。そしてその目的は、「救い主として御自身が十字架にお架かりになる」ということでした。
 このことは、今日の箇所ではまだ伏せられていて、明らかになっていません。しかし間もなく、弟子たちに明らかにされることになります。8章31節で、主イエスは御自身が必ず多くの苦しみを受け、敵によって排斥され退けられて十字架にかけられ殺されるけれども、三日目には復活なさるのだという、最初の受難予告をしておられます。
 今日の段階では、主イエスはガリラヤ湖畔のベトサイダにおられ、そこから更に北に向かってフィリポ・カイサリア地方に向かおうとしておられます。方角から言うとエルサレムは南の方にありますから、これではエルサレムやユダヤの地に背を向けて遠ざかっていくように見えるのですが、しかし主イエスは、フィリポ・カイサリアから南のエルサレムに向かって行こうとされます。これはどういうことかというと、主イエスが、狭い意味でのユダヤ、つまりユダヤ人たちが多く暮らしているユダの国だけでなくて、より広い意味で神の民が暮らしている場所、昔はイスラエル十二部族と言われ、そのうちの十部族は既に歴史の中でどこかに消えてしまっているのですけれども、しかしその十部族の子孫である人たちが暮らしている北辺の土地までを一旦訪れてくださって、そこから南のエルサレムを目指して歩んで行かれるということです。
 主イエスは、イスラエルの民の失われている人々のことも御心にかけてくださって、そしてその只中を通ってエルサレムの十字架へと向かって行かれます。主は御自身の民を、それこそ一人も欠けることなく全ての者を覚えながら、救い主としての御業を果たすため、エルサレムの十字架へと進んで行かれるのです。

 ところで今日の箇所では、そのように十字架を見据えて道を進んでおられる主イエスの前に、一人の人物、目の不自由な人が連れて来られます。
 今十字架の道を進んでおられる主イエスにとって、この人と出会い、その目を開けてあげることがベトサイダに来られた目的かというと、そうではありません。主イエスにとってベトサイダは旅の目的地や終点ではなくて、あくまでも経由地の一つ、中継点でしかありません。たとえ主イエスによって目を開けていただいた人にとって、この日の出来事がいかに大きく重く喜ばしいことであったとしても、そのことが主イエスの目的ではないのです。
 その意味で、この記事について、説教者の中には、「救い主である主イエスの旅の本筋から言うと、途中で道草を食っているようなものだ」という言い方をする人がいます。
 しかしよく考えますと、ここに起こっていることは道草でも脇道に逸れているのでもありません。今日の説教題にもしましたが、主イエスは今日の箇所で「何か見えるか」と尋ねておられます。この言葉は、直接には目の不自由な人を癒してあげる途中で、主イエスがこの人に向かって尋ねておられる言葉です。けれども、「何か見えるか」という、この主イエスの問いかけの言葉は、実は、その場に居合わせた弟子たちや、更に踏み込んで言うなら今日ここで聖書を開いて御言葉を聞いている私たちに向かっても語りかけられている言葉なのです。「何か見えるか。あなたはいったい何を見るのか」。

 今日の記事は、「一行はベトサイダに着いた」という一文から始まります。「一行が着いた」、その一行はもちろん、主イエスと弟子たちのことです。一行はベトサイダに着いたのですが、先ほど言いましたように、旅の本当の目的地はベトサイダではなく、エルサレムです。けれども、それを知っているのは主イエスだけです。弟子たちはまだ、自分たちがどこに向かって進んでいくのかを知りません。弟子たちは自分たちが行く先を知っているわけではなくて、主イエスに行く先をお任せして、主の一行とされています。
 しかし弟子たちも、ただたまたま主イエスの周りに従っているだけではありません。弟子にも、従っているなりの意味と目的があるのです。弟子たちは、やがて主イエスがエルサレムに着いたときに、主の十字架と復活の証し人とされていきます。「主イエスは確かに、私たちのために、私たちのせいで、十字架にお架りになった。けれども甦ってくださった」、そのことを証しする、そういう一人一人として弟子たちは主イエスに招かれ主イエスに従い、共に歩んでいるのです。ですから今ここで一行が進んでいる旅というのは、主が十字架に向かっておられる旅ですけれども、しかし同時に、まだはっきりと自覚してはいないのですが、弟子たちにとっては証し人となっていくための旅なのです。
 そして、証し人となるためにぜひとも必要なことは何かというと、それは、自分たちが経験させられている出来事を「しっかりと見る」ということです。主イエスは、「見る」ということを弟子たちに教えながら、この旅を進んで行かれます。

 今日の記事では、一人の目の不自由な人が主イエスのもとに連れて来られています。連れて来られたのですから、当然この人の周りには、彼を主イエスのもとに連れて来て、「触れていただきたい」と願った他の人たちがいたはずです。もしかすると主イエスの周りには、連れて来た人だけではなく、他にも大勢の人がいたかもしれません。
 ところが今日の記事では、主イエスはこの人を癒そうとする時に、わざわざ手を引いて、この人を村の外へと連れ出しています。なぜこのようなことをなさるのか、明らかにこれは、主イエスがこの癒しの場面を他の人の目から遮ろうとされたためです。23節に「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった」とあります。主イエスがこの人を村の外に連れ出して、御自身と一対一の関係になって癒しを行おうとなさる、これは癒しの場面を野次馬に見られたくないためです。もしかすると、この目の不自由な人を主のもとに連れて来た人々というのは、もちろん親切心からそうしただろうことを疑う必要もありませんが、それでも、「主イエスが癒しをなさるその場面に居合わせることになるかもしれない」という思いも持っていたかもしれません。親切心からの行いだったことを否定できないように、物見高い気持ちがあったということも否定できないのです。
 いずれにせよ、主イエスが物見高い人たちの視線から癒しの業を遮り、見せないようになさっているということは、もっと考えてみますと、主イエスが、人間の物見高さとか好奇心によって御自身の評判が高くなることを避けようとしておられる、つまり、癒しによって知れ渡っていくことを必要となさらなかったということなのです。

 こういう主イエスの姿勢は、今日の出来事に限ったことではありません。8章の初めには、4,000人の人たちを僅かのパンで養い満腹させたという出来事が語られていました。その場面でも、人々が食べて満腹すると、主イエスは直ちにその群衆を解散させておられます。けれども、解散した群衆がそれぞれ町に帰って「本当にびっくりした。思いがけない経験をした」と言い広めると、「主イエスはすごい人だそうだ」と言って、また人が戻って来ますから、主イエス御自身は弟子たちと舟に乗って、すぐにその場を立ち去られました。これは明らかに、主イエスについての良い評判が広がって、大勢の人が好奇心にかられて主イエスの元を訪れるという事態を避けようとなさっているのです。
 主イエスは、パンの奇跡や癒しの出来事を通じて、ただ食事の問題や健康のことで人々から歓迎を受けようとなさったのではありません。主イエスは、もっと別のことなさろうとしていて、そして従う弟子たちには、そのことをしっかりと見届けるようであって欲しいと願っておられます。主イエスのことを、単に食卓の問題を解決し病気を癒してくれる、そして人生や社会の中で出遭う様々な問題を解決してくれる、そういう好ましい事柄をもたらしてくれる人物として歓迎するようになるということを、主イエス御自身は望まないのです。むしろ、拒否なさいます。だからこそ、4,000人の群衆を解散させ、御自身はいち早く舟に乗ってその場所を後になさる、また目の不自由な人を村から連れ出されたのでした。

 目の不自由な人を癒すに当たって、主イエスは、その目に唾をつけ、両手を置かれました。今日の衛生観念からすると、これはいかにも受け入れ難いことのように感じられるだろうと思います。私たちは、人間の口の中には様々な雑菌がおり、健康を守る上で本当に大事なのは口の中を清潔に保つことだと知っていますから、「自分の唾を他の人の目に塗る」などということは、今日では考えられないと思います。
 しかし古い時代の人たちは、そうは思っていませんでした。むしろ、唾の中には人を癒す力があると考えられていました。なぜかというと、言葉を喋る際に唾が飛ぶことがありますが、人を慰めたり力づけて立たせたりするような言葉というのは、唾の中にもその効力が潜んでいて、唾を通して癒す力が働くと考えられたからです。
 そうしますと、主イエスが具合の悪い人の患部に御自身の唾を塗るということをなさっているのは、治療の方法としてというよりも、主イエスの口から出てくる御言葉の目に見える形のようなものが、そこで考えられているのです。この箇所だけでなく少し前の箇所でも、主イエスが耳の不自由な人の耳に御自身の唾をつけた指を挿し入れたという記事がありました。私たちは、主イエスが唾を患部に塗ったと聞くと唾液のことを考えてしまいますが、そこで言われていることは、主イエスの御言葉が具体的な形をとって具合の悪い人の患部に留まる、そんなことが考えられているのです。

 そしてそう聞きますと、ここで言わんとしていることが私たちにもなんとなく感じられるのではないかと思うのです。
私たちは、礼拝の中で聖書の朗読がされ説き明かしがされていく、それを聞くときに、不思議とその御言葉が自分に触れてくるように感じることがあるかもしれないと思います。もちろん、説教をしている牧師が聞いている人たちの日常を全て知っていて語っているわけではありません。ところが聞く側にとってみると、自分の過ぎた一週間をこの牧師はどこかに隠れて見ていたのではないかと思うくらい、自分が抱えている悩みや問題に身近に思えるようなことが聖書の言葉を通して語られているように感じて、不思議に思う場合があるのです。それは、私たちが聖書の言葉と説き明かしを通して、「神さまがわたしと一緒にいてくださる」ということを知らされ、またそのことを親しく経験させられ、慰められ力を与えられているということに他なりません。主イエスの口から出た御言葉が私たちに触れる、そして聖書の御言葉が説明されて、それが私たちに理解される時に、そこに主イエスの温もりを感じ、神の慈しみの力が働いていることを感じさせられます。ここでの「唾」は、そういう主イエスの生き生きとした力が働いているということを言い表しているのです。

 主イエスはそのように、神の御言葉の力を働かせる中で、「何か見えるか」とお尋ねになりました。主イエスとの出会いによって慰めや力や勇気を与えられ、癒される、そういう人は、その経験を通してその人自身が主の証し人にされていきます。その際に、主イエスはその人が御自身の御業をどのように経験しているだろうかということに関心を持って、尋ねてくださるのです。「あなたは何かここで見えているか」。
 もともと目の不自由だった人は、一度にすべてが見えたわけではありませんでした。見えるようになっても、最初はぼんやりと見えていたようです。24節に「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります』」とあります。福音書の中には主イエスが癒しをなさったという記事はたくさん出てきますが、この記事は、ある意味で独特な記事です。主イエスによる癒しが、一度ですっかり良くなったのではなく少しずつ良くなっていったと書かれていて、その点が、福音書の中でここにしかない、とても珍しいユニークな記事なのです。
 けれども見方によれば、「主イエスは目の障害を一気に癒すことができなかった。この癒しの業は困難を極め少しずつしか良くならなかった。主イエスの癒す力が足りない」と言っているようにも聞こえます。そしてそのためと思われますが、このマルコによる福音書より後で書かれたマタイやルカによる福音書では、この記事は削られてしまっています。初代教会の中では、主イエスには何であれ癒す力があって、どんなに難しい病でもきっとたちどころに癒すことができるはずだという考え方が時代を追うごとに強くなっていった、そのために後の時代に書かれた福音書になると、このような記事は削られていくことになります。

 けれども、そのように主イエスの癒しがある意味では非常に単純化されて語られていくということは、「主イエスは必ずどんな困難な状況も克服してくださり、すべてを解決に導いてくださる」という信仰を表しているのであって、実際の癒しがいつでも簡単に一気呵成に行われると言っているわけではないのです。困難や問題の種類によっては、いっときにすべてが簡単に解決されるのではなく時間をかけて丹念に治す必要がある事柄もあるに違いありませんから、そういう意味で今日の箇所は、最初は全く見えなかった人が主イエスの辛抱強い導きによって、そしてまた御言葉に繰り返し触れていただくことによって、最初はぼんやりとしか見えていなかったものがよく見えてきて、最後にははっきり識別できるように変えられていった、そういう様子が語られているのです。

 弟子たちは主イエスの証人となるために、今主イエスに従ってエルサレムに向かっています。弟子たちは主イエスの一行の一員とされ従っているのですが、弟子たちも「何か見えるか」と、この人が尋ねられている言葉をその場にいて聞いています。
 弟子たちがこの時点では何も分かっていなかったということは、この前の記事から言われていました。主イエスが4,000人の人たちにパンを分け与え皆が満腹した、その時にもその場面を見ていたけれど、しかしそこで起こっていることが何だったかよく理解できていなかったと語られていました。主イエスがパンで豊かに養ってくださるのを見ても、そのことを悟らず自分たちの舟の中にパンが一つしかないことを不安に思ったりしていた、そういう弟子たちだったのです。 けれども、そういう弟子たちと主イエスは辛抱強く交わってくださり、御言葉を通して親しく触れてくださり、癒していってくださるのだということを、今日の記事は語っています。
 私たちも同じだろうと思うのです。私たちは教会に集って、私たち一人一人が救われた者として、救いを経験させられて過ごしていくのです。この地上の生活の中で、「神さまがわたしを覚えてくださり、神さまの慈しみがわたしを覆ってくださっている。わたしはその中で、本当に生きて良いのだ」ということを聞かされながら、私たちは一人ひとり、それぞれの人生の中で、救いへの道を歩んでいます。
 けれども私たちは、「自分は救われている」とは、なかなか言いにくいのです。どうしてかというと、自分がどう救われているかを言い表せるほどには、よく理解できないところがあるためです。

 主イエスが目の不自由な人との出会い、「何か見えるか」と尋ねてくださり、辛抱強く関わってくださったことで、この人が「ぼんやり」から「はっきり」と見えるようにされていったというこの出来事は、エルサレムに向かっていく弟子たちにとって回り道でも道草でもなく、主の証人となるために必要な出来事でした。
 私たちも、教会生活の中で、最初からすべてがよく見えるようになっているかというと、そうではないかもしれません。けれども私たちは、「あなたは神さまに愛されている。どんなに大変なことや困難に出遭う時にも、なお神さまがあなたの上におられ、あなたはその慈しみの許にあるのだ」ということを、毎週繰り返し聞かされています。私たちはそのことを聞いて、「主は素晴らしい方だ」と言っていればそれで済むのではなくて、「本当に、どうしてわたしが神さまから救われ、支えられ、生かされているのか」ということを証しする、それぞれの人生の中で、そういう務めに向かわされながら今を生きているようなところがあるのです。

 私たちにも、主イエス・キリストが繰り返し出会ってくださり、温かい御言葉をかけ、交わりの中に置いてくださっています。そして私たち一人ひとりにも尋ねてくださるのです。「あなたは何か見えるか」。私たちは何とお答えするのでしょうか。「十字架と復活の主がわたしと共にいてくださいます。そして、神さまの慈しみが確かにわたしを覆ってくださっています」。主イエス・キリストを見上げ、感謝し、喜ぶ者とされていきたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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